論説・随想(2004年 2月)


新古典『砂取物語』…(砂取の翁の話)                       

宮崎 真澄 (銀座パーキングセンター)

…昔々但馬の山奥にへんな若者がいました。その若者は広い海を見たくて、行く度に毒にも薬にもならない"砂"を拾っては持ち帰ってながめていました。 小学校2年のとき初めて見た海、小雨模様の暗い日本海は、それでも強い印象となって残り、高校生になってからはリアス式の変化に富んだ美しい山陰海岸を年に何度か五万分の一を手に朝から夕方までひたすら歩いた。
…浜辺に出ると「何か記念になるものを」と、最初は貝や石ころなどを持ち帰っていたが、どこでも同じような貝があり、石ころもガサが増すと重くなる。そこで「その海岸だけの特徴を持つものが何かないか?」と考えたとき、「そうだ!」と思いついたのが、すぐ足元にあった"砂"だった。 砂などは空気のようにどこにでもあって、その気になって眺めないとどこの砂も同じように見えるので、目の前にあってもしばらくその特徴に気が付かなかったのだ。いくつか見比べて見ると、「こんなに違うものか」と驚く一方、楽しみにもなり、「じゃ、山陰海岸の砂の全部を集めてみよう」と、いつもの悪い収集癖が頭をもたげた。

…海辺の砂は皆さんご承知の通り、その浜辺の背後を形成する山々の土砂が流れ出して堆積し何千年、何万年となく朝夕波に砕かれ洗われながら、いまある砂浜として形成されてきたものだ。土砂の性質、海岸の形状、波や海流の強弱、貝や珊瑚の棲息の有無など、海岸ごとに条件が異なるわけだから、いろいろな海辺の砂が一つとして同じもながないのは理の当然と言えよう。
…山陰海岸以外に手を広げるつもりはなかったのだが、学生になって故郷を遠くするようになると次第に広がり、ついには日本全国からさらに外へ飛び出すようになってきた。当時は金も無く、現在の様な車社会でもなかったので、一箇所の採集でもたいへんだった。  駅を出て炎天下を2時間近くも汗だくで歩き、着いてみたら玉石ばかり、その空しさたるや言語に絶したこともあれば、満潮のため砂浜が護岸の下1メートル以上の深さにあって涙を飲んだ(?)こともある。また、寒風吹きさらしのオホーツクの海辺では、次のバスまで2時間半も風よけもなく震えて待ったのもなつかしい。タクシー代が往復で当時4千円ほどかかったこともある。
…地元の人と、船やバスを待つ間に話すのは楽しみだ。砂浜の自慢話を得意になって聞かせてくれる人もある。新潟のきた「笹川流れ」の砂浜もその一つで、隣の古老が「この砂浜は日本一だよ」とうれしそうに話した。コーヒー店にある薄茶色のグラニュー糖の様な大粒の砂の豊かな集積は、松と岩の織り成す景勝と相まって見事の一語に尽きた。 採取したら「場所」、「日にち」を必ず記す。「あとでまとめて」なんて思ったら、もうアウトだ。稀にそんな事態も生じて、そのときは2つ一辺に捨てることになる。何度か泣くに泣けない思いをしたが、自業自得、しかたがない。 原則として、波打ち際で採取し、持ち帰ってから乾かす。量はもちろん「一握の砂」。ビニール袋に入れてダンボール箱へ放り込むのがパターン。カメラを持っていれば写真を取る。

…国内では北海道・宗谷岬から沖縄・西表島まで8百箇所余りはあろうか。エンドレスだから、いつまで続けるのか自分でもわからない。平成14、15年は鹿児島、熊本南部、徳島、高知、大分などを別用も兼ねて集中的に回った。だんだん風変わりな噂を聞きつけて、旅行に行った知人がわざわざ採取してきて下さる。中には現場の写真や地図まで添えて下さる方もある。簡単な作業のようだが、実は大変面倒なのだ。間違えば荷物まで水浸しになるおそれさえある。生存中には地球の隅々まで周り切れないから最高のお土産であり、心から感謝している。たとえ箇所がダブっていても、その時点のものだから貴重だ。経年変化がわかる。
…珍しい砂ばかり集めているわけではない。「そこのしかない砂」が目的だから、一見ツマラナイ砂でもあればツマルものである。ツマルので有名なのは、例えば「泣き砂(鳴砂)」で、能登半島・門前町の琴ヶ浜や気仙沼・大島の十八鳴浜。これなんて読むか分りますか? 「くくなきはま」といいます。十八で「九九」とはなんてシャレた名前でしょうかね。「靴鳴り」の訛り、あるいは「クック」と鳴るからとも。また、九十九の真っ黒な砂「鉄の砂」、小笠原の薄っすらと緑色に透ける「うぐいす砂」、幸せの砂と呼ばれて人気の高い沖縄の「星の砂」などは代表と言えよう。「白浜」の名は全国に多い。必ずしも真っ白とは限らないが、中では紀州白浜の白良浜(しららはま)の砂の白さは日本一かも知れない。ツマラナイと言うのは外見上だけの話であって、1箇所の収集でも大変だったから、それぞれに対する思い出や愛着は全く別物だ。

…さて、集めたものをこれからどうするのか、これも?だ。狭い家で女房泣かせの堆積物だからと言って、一千もの標本を団地の砂場に提供するにはしのびない。理想的にはなにか学術的な形で生かしてもらえれば望外の幸せだ。島根県に"砂の博物館"を持つ町がある。大学にも"砂の研究"をやっている人がいる。私自身も土質工学で習った「粒径加積曲線」を、全国の海岸ごとに描けたらとの思いはある。トシを考えれば、本気で嫁入り先を心配しなければならない。どんな方法があるか、いい知恵があったら教えて下さい。
…平成13年2月に、都市基盤整備公団の行事に併せて「展示会」を行った。小雪の舞う日、徹夜までして整理にあたってくれた公団の方々のご苦労には、本当に頭が下がった。 多くの砂浜が埋め立てられて消えた。潮流の変化や川からの砂の供給が減って砂浜は後退し、また消えた。環境の汚染やゴミの投棄が、日本の美しい海岸を見るかげもないものにしてきた。しかし、美しい海岸の復興への取組みもなされている。ハマヒルガオやツキミソウの咲く広い砂浜と青い海、夕日の沈むそよ風の砂丘、千鳥の鳴く月夜の浜辺…。

…古来、海は多くの歌や詩に詠まれ、描かれて人の心を豊かにし、夢や力を与え、時の慰めてくれた。この風景をなお大切にし、後世に伝えて行くのがいま生きているわれわれの役割と「砂取の翁」は考えている。

…「砂を知ることは、その大地を知ることだ」…

(ハーバード大学地質学教授 レイモンド・シーバー著 『砂の科学』より)


戻る